俺は市民運動にこそPDCAが必要だと思うけどね
昨日のラディカルデモとそれに対する北海道脱原発クラスタの反応を見て、俺の考え方は、彼らとは決定的に異なるんだろうなということが明確にわかった。
「北方ジャーナル」ブログ記事より
ちなみにラディカルデモの様子はここから読める。
http://hoppojournal.kitaguni.tv/e2523517.html
発炎筒・警官との衝突・北電社員への暴言・迷惑行為・・・
驚くべきことに、このデモを支持する人・容認する人が少なくない。
なお俺は、行為のモラル性や精神性を論点にしても、それは個々人の感性によるものであり全く意味がないと思うので論じない。問題解決というものは、そんなメンタリティの話ではない。
◎同じ失敗を繰り返すのって良くないと思うけど
さて、問題解決のプロセスとして、トライアンドエラーが必要と俺は考える。仮説をたてて、実行し、検証し、改善することだ。Plan(仮説をたてる)Do(実行する)Check(検証する)Act(改善する)の頭文字をとって、PDCAサイクルともいう。
そうしたときに、今までこうしたラディカルデモのような「怒りを表現する」「衝突を前提とした」行為は幾度も行われてきたわけだが、PDCAは行われてきたのだろうか?と考える。
例えば、日米安保への抗議として過激な学生運動があり、互いに傷ついた。しかし、ここで学んだことといえば、学生も警官も死傷者を出したが、結局「何も変えられなかった」という事実だった。なぜか?市民同士が対立し、傷つけ合った一方で、本当にそれでうまみを得るような立場の人間にとっては、それこそ「痛くも痒くもなかった」のだ。
それどころか、市民による意見表明を、概ね無関心層に近い一般市民の中で「特別な人たちがとりあげる特別なこと」にしてしまった。また、市民運動を好まない体制側はこれを利用し、結果的に「デモは違法行為」とまで思う市民を創りだすことに成功した。
また、俺もいまだに少し思っている節があるのは、市民運動が問題解決に対してのモチベーションではなく、ルサンチマンに依って行われているケースも多いのではないかということだ。そして、そう思っている市民も相当数いるのではないだろうか。かつての俺がそうであったように、彼らは市民運動をシニカルに見ている。
つまり、「怒り・衝突・対立による市民運動が問題解決を実現する」という仮説は、「市民の問題意識を大きく下げることに成功した」という結果を持って、残念ながら日本においては失敗しているのだ。
◎違う手法でのアプローチを究めるべきでないの
だとしたら、未だされていない手法で運動を行う必要性があるのではないか?というのが、俺の考えだ。怒り・衝突・対立ではなく、愛・理解・非対立による運動だ。
こう聞くと、なんだか胡散臭いイメージは否定できない。まあ、俺も書きながら正直、うさんくせーなと思う部分がある。しかし、ラディカルデモの先はなんだろうか?市民数万人が暴動を起こし、方々に火を放ち、原発推進論者を殺し尽くす?
そこまでやれば原発はなくなるかもしれない。しかし、そこまでやるにはいろんな社会的な装置があり、ハードルは低くない。この平和ボケした日本において、数万人に紛争を決意させ、警察や自衛隊を凌駕するほどの武力で推進論者を殺す必要がある。(だいいち、俺はそれで原発がとまってもうれしくない)
そういった市民の怒りを喚起するよりも、市民の共感を喚起するほうがハードルが低い。シニカルな話をしよう。絆キャンペーンでウンザリするほどわかった日本人のメンタリティだ。「共感」して「感動」して、自分が良い人だと錯覚したいんだ、みんな。
そういった文脈でいうと「原発はよくないと思う。でも、北電の社員がみんな悪いわけじゃない。いろんな抑圧やしがらみがあって、原発を容認している側面もあるんだよね?あと、電気が足りないかもしれないから頑張ってるんだろ?ありがとう、もうわかったよ、もう無理しなくていい。俺達も電気使い過ぎてたよ、ごめんな」のほうが共感しやすいのではないか。
増えてもせいぜい数百人の過激派が原発やめろと騒ぐのと、過半数の市民が「もういいよ、原発やめるもんね?」とニコニコして見てるのと、どっちが原発やりづらい?
・・・というのが、俺の仮説。
これだって合ってるかどうかわからないし、結果的に逆行するかもしれない。
しかしラディカルデモを支持する一方で「おとなしい明るいデモに意味はない、無視されるだけだ」と切り捨てるようなことは「賑やかな明るいデモ」の可能性をも切り捨てているため、大変惜しい。だから、俺はまず「賑やかな明るいデモ」の可能性をきちんと検証しておきたい。
問題解決のために他人をコントロールしようとしてダダをこねたり、むやみにおもねったりすると、お互いのためにならないことは明確だ。多くの場合、自分の問題は解決できても、相手の問題に転嫁されるだけで、最後はどちらかが相手か自分を殺すしかなくなる。
そうではなく、双方の問題解決のためにアタマを働かせ、そこに対して行動する「運動」こそが、本当の問題解決を達成するのはないかと考える。時には、演技(嘘をつくことではなく、表現手法を工夫すること)も必要かもしれないが、それによってお互いの問題が解決できるならいいじゃないか。
そういった意味で、PDCAの考え方がない反原発・脱原発クラスタとは、俺は根本的に考え方が合わない。
◎最後にメンタリティの話を少し
対立心を持って問題解決にあたると、ほとんどの場合こじれる。対立心を捨てて、他人を責める気持ちを捨てて、どうすればお互いの問題が解決できるかを真剣に考えると、良い方向に進む。
俺も対立心を捨て切れない場面が多々有り、まだまだ研鑽をしているところではあるんだけど。